幸せな引っ越し

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葉月真夜子

私たち夫婦は、とても良い物件に出会った。 都心から少し離れた閑静な住宅街。築10年のマンションの最上階。3LDKで家賃は相場の半額。管理人さんも親切な老紳士で、内見の時から「この部屋にはご縁のある方しか来ないんですよ」と笑顔で話してくれた。 契約の時、管理人さんから一つだけ条件を告げられた。 「寝室の壁に掛かっている額縁は、絶対に外さないでください」 それは、薄暗い色調の風景画だった。どこかの古びた洋館が描かれている。珍しいことに、画面の中の窓から、別の風景画が見えるような構図になっていた。 「これは前の住人が残していったもので、この部屋の大切な一部なんです」 管理人さんはそう説明した。芸術作品として価値があるのかもしれない。私たちは簡単に承諾した。 引っ越して一週間が経った頃、妻が不思議なことを言い出した。 「ねぇ、あの絵、少し変わってない?」 確かに、何かが違う。洋館の窓から見える風景が、わずかに違っているような。でも、気のせいだろう。照明の具合で見え方が変わるのかもしれない。 一ヶ月後、今度は私も確信した。絵の中の洋館の窓が、徐々に大きくなっているのだ。そして窓の外の風景も、日に日に鮮明になっていく。 不安になって管理人さんに相談すると、老紳士は穏やかに答えた。 「ご安心ください。それは幸せの証なんです」 どういうことか尋ねても、それ以上は教えてくれなかった。 ある夜、私は目が覚めた。寝室が妙に明るい。壁を見ると、額縁の中が輝いていた。洋館の窓が巨大になり、そこから見える風景が、まるで実写のように鮮明になっている。 それは、私たちの寝室だった。 窓から覗き込むように、誰かが私たちを見ている。朽ちた皮膚と、空洞の目。かつてこの部屋に住んでいた人々だ。その数は、どんどん増えていく。 「ああ、新しい住人の方ですね」 背後から声がした。振り向くと、管理人さんが立っていた。しかし、その姿は決して人間のものではなかった。 「この部屋には、ご縁のある方しか来ないんですよ」 その言葉を最後に、私たちは絵の中に吸い込まれた。今では私たちも、新しい住人を窓から眺めている。とても幸せだ。だって、家賃はもう永遠に必要ない。 管理人さんは今日も、笑顔で内見案内をしている。相場の半額という破格の家賃に、若い夫婦が目を輝かせていた。 私たちは窓から、彼らを歓迎の眼差しで見つめている。この部屋の大切な一部として。