古椿荘の管理人

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葉月真夜子

私は、かつて祖母が管理人を務めていた古びたアパート「古椿荘」の鍵を受け取った。 祖母は先月、静かに息を引き取った。遺品整理の際、埃まみれの日記が見つかり、そこには「古椿荘の真実を知ってしまった。でも、今さら逃げ出すことはできない」という不可解な言葉が残されていた。 古椿荘は築60年を超える木造アパートで、何年も空室が埋まらない。管理人として最後の仕事をしようと、私は夕暮れ時に建物の点検に向かった。 階段を上がると、廊下の突き当たりに一つだけ、表札の掛かった部屋があった。しかし、私の記憶では、その部屋も長年空室のはずだった。 表札には「椿」とだけ記されている。 ノックをしても返事はない。管理人の権限で合鍵を使おうとした瞬間、部屋の中から風鈴の音が聞こえた。しかし、風は吹いていなかった。 扉を開けると、部屋の中は驚くほど綺麗に保たれていた。まるで誰かが住んでいるかのように。テーブルの上には煎茶の入った湯飲みが置かれ、まだ湯気が立ち上っている。 「おかしい」 私は祖母の日記を取り出した。ページをめくると、40年前の記録が目に留まった。 「椿さんが亡くなってから、もう一ヶ月が経つ。でも、毎晩お茶の香りがする。椿さんは、まだここにいるのかもしれない」 背筋が凍る。 湯飲みから立ち上る湯気が、人の形を作り始めた。 「よく来てくれました。新しい管理人さん」 老婆の声が、どこからともなく響いた。 私は気づいてしまった。祖母が逃げ出せなかった理由を。古椿荘には、永遠の住人がいるのだ。 湯気は次第に輪郭を帯び、着物姿の老婆の姿となった。彼女は微笑んでいた。 「さあ、お茶の時間です」 逃げ出そうとした私の足は、まるで地面に根を生やしたように動かなくなっていた。 祖母の日記の最後のページには、こう書かれていた。 「古椿荘の管理人は、代々椿さんのお茶会に付き合わなければならない。これが、この建物に囚われた魂との約束なのです」 窓の外では、満開の椿の花が、深紅の色を夕闇に溶かしていった。