記憶の距離

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高瀬陽太

「思い出は、光のように時空を歪ませる」 その言葉を残して、妻は消えた。 私は研究所の記録を確認する。妻・美咲が被験者として参加した「記憶転送実験」の最終日の映像だ。画面には、銀色の装置に横たわる彼女の姿が映っている。 「転送開始まで、あと30秒」 カウントダウンの声が響く。この実験は、人の記憶を光に変換して転送するという画期的なものだった。記憶を光に変えれば、理論上は光速での伝達が可能になる。火星移住計画における最大の課題、通信の遅延問題を解決できるはずだった。 「転送開始」 装置が起動し、美咲の周りが青白い光に包まれる。その瞬間、モニターに異常な波形が表示された。 「エネルギー値が予想を超えています!」 警告音が鳴り響く中、美咲の体が淡く光り始めた。そして、まるでホログラムが消えるように、彼女の姿が薄れていった。 「実験中止!直ちに中止を!」 私の叫び声が響いた時には、既に遅かった。 それから一年。 私は自宅の望遠鏡で夜空を見上げていた。火星が綺麗に見える夜だった。ふと、視界の端に不思議な光を捉えた。まるで星が瞬くように、規則的に明滅している。 「まさか…」 私は慌てて光の周波数を計測する。そこには明確なパターンがあった。それは…モールス信号のように見える。解読してみると、そこには意味のある言葉が含まれていた。 『あなたの元に帰りたい』 私の背筋が凍る。この信号、送信元は火星軌道上だった。理論上、そこに通信設備は存在しない。しかし、光は確かにそこから発せられている。 パソコンの画面に向かい、私は古いプログラミング言語で応答信号を作成した。8bitコンピュータ時代を思い出させるような単純な信号。しかし、これなら彼女にも理解できるはずだ。 『待っている』 返信を送ると、新たな信号が返ってきた。 『記憶は光になった。でも、意識は残っている。私はこの光の中で、あなたのことを想い続けている』 美咲の記憶は光に変換され、宇宙空間を漂っている。私たちの予想をはるかに超えて、彼女の意識そのものが光の存在になったのだ。 その夜から、私は毎晩彼女と交信を続けた。彼女は光となって宇宙を旅しながら、新しい発見を私に伝えてくれる。私は彼女の観測データを元に、新たな理論を構築していった。 「思い出は、光のように時空を歪ませる」 彼女の言葉の意味が、今なら分かる。記憶は単なるデータではない。それは意識そのものであり、実在する力を持っている。その力は、時として物理法則さえも超えてしまう。 今夜も、私は望遠鏡を覗きながら彼女からの信号を待っている。研究所では、新たな転送装置の開発が進んでいる。今度は、光となった意識を物質に戻す装置。まだ完成までには時間がかかるだろう。 でも、それでいい。 美咲は、光となって宇宙を旅しながら、私のことを想い続けている。その思いは、確かに時空を歪ませ、いつか私たちを再会させてくれるはずだ。 夜空に、また美しい光が瞬いた。