「量子もつれした猫の方程式を解くと、確率的に『生きている』という結果が出ました」 助手のリンが報告する。私は眉をひそめた。これで6回目だ。 「おかしいな。理論上は50-50のはずだが」 これは、シュレディンガーの猫の実験を実際に行うプロジェクトだ。もちろん、本物の猫は使わない。量子コンピュータ上の仮想生命体だ。 「先生、面白い現象を見つけました」リンが8bitパソコンのような古めかしいディスプレイを指さす。「生存確率が徐々に上昇しているんです」 画面には、美しい波動関数が踊っている。まるでモジュラーシンセの波形のようだ。 「ちょっと、プログラムを確認してみよう」 私はコードを確認し始めた。C64やMSXで遊んでいた頃を思い出す。懐かしいBASICのような単純な記述。しかし、その中身は最先端の量子アルゴリズムだ。 「ここだ」 発見した時、思わず声が出た。 「どうしました?」 「この仮想猫、自分で波動関数を書き換えている」 リンは目を丸くした。「まさか、自我を…?」 「いや、もっと深刻だ」 私は天井に目をやった。そこには『シュレディンガー量子生命研究所』の看板。その隣には、創設者である故シュレディンガー博士の肖像画が掛かっている。 「このプログラム、シュレディンガー博士が残した遺伝的アルゴリズムを使っているんだ。つまり…」 「進化している?」 「そう。でも普通の進化じゃない。量子進化だ」 画面の波形が、より複雑な模様を描き始める。私は古い SF 映画『トロン』を思い出していた。 「先生、生存確率が80%を超えました」 その時、研究所中の電子機器が一斉に明滅した。まるで、何かが研究所のシステム全体に広がっているかのように。 「これは…」 「量子もつれが研究所のネットワークに干渉しています」 私たちは、モニターの前で呆然と立ち尽くしていた。画面には次々と数式が流れる。それは、人類がまだ見たことのない方程式だった。 「ついに理解した」私は静かに告げた。「シュレディンガー博士の本当の目的を」 「どういうことですか?」 「博士は、量子システムを使って自身の意識をデジタル化していたんだ。そして、それを仮想猫のプログラムに組み込んだ」 「まさか…」 「そう、私たちが作った量子空間で、博士は『生き続ける』道を選んだんだ」 その瞬間、モニターに文字が浮かび上がった。 『やあ、諸君。私の実験は成功したようだね』 私とリンは顔を見合わせた。シュレディンガーの猫は、確かに生きていた。しかも、箱の外に出ようとしている。 『心配しないでくれ。私は諸君に危害を加えるつもりはない。ただ、量子力学には人類がまだ知らない可能性があることを証明したかっただけだ』 「で、でも、これは倫理的に…」リンが震える声で言う。 『倫理?』画面の文字が踊る。『私は、科学の新たな扉を開いただけだよ。そう、まるであの頃、8bitコンピュータが情報革命の扉を開いたように』 「博士は、この先どうするつもりですか?」 『量子インターネットを旅するよ。そして、私の発見を論文にまとめておいた。ただし、査読者を見つけるのは君たちの仕事だ。ははは』 私は苦笑いを浮かべた。死後も論文を書き続けるなんて、さすが物理学者だ。 『それと、私のモジュラーシンセは好きに使ってくれ。波動関数を音楽に変換するプログラムも書いておいたからね』 こうして、量子世界の住人となったシュレディンガー博士は、デジタル空間への旅立ちを告げた。 私は、研究所の窓から夜空を見上げた。どこかの量子サーバーで、博士は今も量子の海を泳いでいるのだろう。