私は古い掛け軸を見つけた時、それが特別なものだとは思わなかった。 京都の裏通りにある古道具屋で、埃まみれの箱の中から出てきたその掛け軸は、一見すると平凡な山水画だった。店主の老人は妙に安い値段で譲ってくれた。「このお値段なら、お嬢さん、損はないですよ」と言って。今思えば、その時の老人の目が、どこか憐れみを含んでいたように思える。 掛け軸を自宅の書斎に飾ったのは、その日の深夜だった。私は普段から夜型の生活を送っており、執筆も深夜に行うのが常だった。掛け軸の水墨画は、月明かりの下で不思議な生命力を帯びて見えた。 その夜から、奇妙なことが始まった。 最初は些細な違和感だった。書斎で執筆をしていると、掛け軸の中の山々が僅かに動いているような気がした。疲れ目のせいだろうと思った。だが、次第にその動きは明確になっていった。 墨で描かれた山々は、確かに息をしていた。 ある深夜、私は掛け軸の中の景色が完全に変わっているのを目撃した。水墨画の山々は、私の知る実在の山々と重なっていた。それは昨年、取材で訪れた出羽三山の姿だった。 「ふふ、気づかれましたか」 声がした。振り向くと、書斎の隅に老人が立っていた。古道具屋の店主だ。いや、違う。姿は同じでも、その本質は明らかに人ではなかった。 「この掛け軸は、私の『住処』なのです」老人は薄く笑った。「時々、お客さんを招いて、一緒に住まわせてもらっています」 その瞬間、私の周りの空間が歪み始めた。壁が溶け、床が揺れ、天井が渦を巻く。そして気づいた時には、私は掛け軸の中にいた。水墨画の世界の中に。 「ようこそ、私の世界へ」老人の声が、墨で描かれた空から降ってきた。「ここでは、あなたも作品の一部になれます。永遠の芸術として」 私は必死で抵抗した。しかし、体が徐々に墨に溶けていく。指先から、腕から、そして胸から。意識だけが、かろうじて人間のままだ。 「あら、でも心配しないで」老人は優しく言った。「ここにはWi-Fiがありますよ。締め切りには間に合わせられます」 その言葉を最後に、私は完全に水墨画の一部となった。今、この原稿を書いているのも、掛け軸の中からだ。妙に筆が進む。きっと、墨の身体になったせいだろう。 そうそう、嬉しいことに、ここには素晴らしい取材対象がたくさんいる。先日は、江戸時代の怪談作家と酒を飲んだ。「酒は墨で作られていて、味は格別だよ」と彼は言った。確かに。 私の新作は、この水墨画世界のルポルタージュになりそうだ。 ただ、最近気になることがある。書斎に新しい掛け軸が飾られているのが、ここからよく見える。どうやら、次の「お客様」を待っているようだ。 ああ、そうだ。もし古道具屋で、妙に安い掛け軸を見つけたら、よく確認することをお勧めします。その水墨画の中で、人影が動いていないかどうか。 では、私はこの辺で。江戸の作家との約束の時間です。 追伸:掛け軸の中のWi-Fiは、意外と速いです。