「削除対象:記憶番号KX-7249、対象者:山崎美咲、29歳」 私は淡々とログを確認しながら、記憶抹消装置のパラメータを調整していた。 2045年、記憶の編集が可能になった世界。私たちメモリーエンジニアは、人々の「不要な記憶」を除去する仕事を担っている。 「先生、準備が整いました」 アシスタントの声に頷き、モニターに目を向ける。手術室のベッドで眠る女性の脳波が、規則正しい波形を描いていた。 「山崎さんの削除希望記憶は、2044年9月15日から同年12月24日までの恋愛関係に関する全て、ですね」 私は古いキーボードを叩きながら、データを確認する。趣味で集めている80年代のIBM PCだが、その単純な処理系は記憶データの解析に最適なのだ。 モニターには、彼女の記憶が波形となって表示される。そこには、確かな愛情と、深い悲しみが混在していた。 「記憶の強度指数が通常の3倍以上です」 アシスタントが心配そうな声を上げる。 「ああ、相当強い感情が刻まれているな」 私は量子メモリースキャナーの出力を確認する。記憶が強すぎると、完全な削除が困難になる。時には、予期せぬ副作用も起こりうる。 「先生、患者の同意書の最終確認をお願いします」 同意書には、山崎美咲の震える手で署名がされていた。「どうか忘れさせてください。この痛みに耐えられません」と彼女は懇願した。 その瞬間、私の腕時計が微かに振動する。自作の量子もつれ検出器だ。異常な量子場の変動を感知すると、警告を発する仕組みになっている。 「おかしいな...」 私は急いでメインシステムのログを確認する。すると、驚くべきデータが表示された。 「これは...記憶の共鳴現象?」 「先生、どうしました?」 「この記憶、既に誰かが削除を試みている」 私はモニターに映る異常な波形を指差す。「しかも、複数回」 アシスタントが息を呑む。「まさか...」 「ああ、その通りだ」 私は山崎の記憶データを詳しく分析する。 「彼女は既に5回、同じ記憶を削除している。しかし、記憶は毎回再生している。まるで...量子の重ね合わせのように」 愛する人を失った痛みは、彼女の意識の深層に量子状態として刻まれていた。通常の削除では、その痛みは消えない。 「手術を中止します」 私は決断を下す。 「しかし、患者の希望は...」 「この手術を続けることは、彼女の意識そのものを破壊することになる」 キーボードを叩く音が研究室に響く。 「私たちには、記憶を削除する技術はある。でも、魂を消し去る権利はない」 数時間後、麻酔から目覚めた山崎に、私は説明した。彼女の記憶は、もはや単なる記憶ではないこと。それは彼女の存在そのものの一部になっていること。 「記憶は消せます。でも、あなたの心が望んでいるのは、記憶の削除ではない」 私は静かに告げた。 「あなたの無意識は、その記憶を守ろうとしている。それは、その記憶があなたにとって、それほど大切だからです」 山崎の目から、涙が溢れ出した。 その日以来、私は記憶削除の仕事を辞めた。代わりに、記憶の量子性を研究している。人の心は、私たちが考えるよりも遥かに深く、神秘的なのだ。 時々、研究室の窓から夜空を見上げながら考える。 記憶は、アンドロメダ銀河のように遠く、そして美しい。 それは消すべきものではなく、ただ、受け入れるべきものなのかもしれない。