量子コンピュータ研究所の最上階、D-7実験室で発見された主任研究員の死体。 完全な密室、そして被害者の胸には奇妙な焦げ跡が残されていた。 「死因は心臓麻痺。発見時刻は2月14日午前3時15分です」 永田刑事の声が、静寂な実験室に響く。私は黒縁の眼鏡を少し持ち上げながら、瞬きもせずにその場所を見つめていた。 私の名は結城誠司。量子物理学者にして、この研究所の主任研究員だ。そして、床に横たわる松原竜介は、私の同僚であり、親友でもあった。 「不可解なのは、この実験室のセキュリティシステムです」と、システム管理者の山田が説明を始める。「入退室記録によると、松原さんが最後に入室したのは昨夜23時47分。その後、発見されるまで、誰も入室していません」 しかし、私にはある仮説があった。それは、量子もつれの原理を応用した最新の実験に関係している。 実験室の中央には、零下273度近くまで冷却された量子プロセッサが鎮座している。松原が取り組んでいた研究は、量子テレポーテーションの新理論。二つの粒子の量子状態を瞬時に転送する技術だ。 「永田さん、被害者の胸の焦げ跡、これは単なる事故死とは考えにくいですね」 私は慎重に言葉を選びながら続けた。「松原が最後に残したデータログを確認させてください」 許可を得て、私は研究室のメインコンピュータにアクセスする。古びた機械式キーボードを叩く音が静かに響く。画面には、予想通りの異常なデータの痕跡が残されていた。 「これは...」 私の背筋が凍る。データログには、量子もつれ状態の異常な乱れが記録されていた。通常ではありえない、局所的な時空の歪みを示唆するものだ。 「松原は、実験中に何かを発見した。そして、それが彼の命を奪った」 私は画面に映る波形を指さしながら説明を始める。「この波形、これは量子テレポーテーションの失敗を示すものではありません。むしろ、完全な成功を示しています。しかし...」 永田刑事が眉をひそめる。「しかし?」 「成功しすぎたんです。松原は、単なる量子状態の転送ではなく、マクロなスケールでの物質転送に成功した可能性がある。その過程で、予期せぬ事態が起きた」 私は実験室の隅に置かれた古い8bitコンピュータに目を向けた。松原は趣味で集めていた古いマシンをデータ記録用のバックアップとして使用していた。 そのディスプレイには、驚くべきメッセージが点滅していた。 「永田さん、これを見てください」 8bitコンピュータの画面には、簡素な文字で次のように記されていた。 『成功。だが制御不能。E-13研究室にも同じ現象が発生。早急な確認が必要。気をつけて。』 「E-13研究室?それは...」 永田刑事の言葉を遮るように、私は立ち上がった。 「この建物の反対側、ちょうどこの部屋と対称の位置にある実験室です。そして、もし私の推測が正しければ...」 私たちがE-13研究室に到着したとき、そこには衝撃的な光景が広がっていた。部屋の中央には、もう一人の松原竜介が横たわっていた。全く同じ姿勢で、全く同じ焦げ跡を胸に残して。 量子テレポーテーションは成功していた。しかし、それは松原自身を二つに分けてしまったのだ。観測された瞬間、波動関数の収縮により、二つの可能性が同時に実現してしまった。 そして、その瞬間に二つの松原は、共に生命活動を停止した。完璧な量子もつれによって結ばれた二つの存在は、お互いを否定しあい、消滅するしかなかったのだ。 事件は未解決事件として処理された。人類の科学は、まだ量子の神秘のすべてを解き明かせていない。しかし、松原の残したデータは、私たちに新たな研究の方向性を示していた。 私は今でも時々考える。あの夜、松原は本当に何を見たのか。そして、彼が開いた扉の先には、どんな真実が待っていたのか。