「おかしいと思いませんか?」 私は取材ノートを開きながら、定年間近の音楽教師、村井先生に尋ねた。モーツァルトのピアノソナタが静かに流れる音楽室で、彼は窓の外を見つめたまま答えた。 「ええ、確かにおかしいんです。でも、言葉にするのが難しくて...」 三ヶ月前、この地方都市の音楽教室で起きた不可解な出来事。私が取材に訪れたのは、ある投書がきっかけだった。 『毎週木曜日の夜、誰もいないはずの音楽教室からピアノの音が聞こえてくる。不思議なことに、それは三ヶ月前に亡くなった女子高生が弾いていた曲と同じなのです』 亡くなった生徒の名は、佐藤美玲。十七歳。交通事故で命を落とした。 「美玲さんは、どんな生徒だったんですか?」 村井先生は、古いアルバムを開いた。そこには、ピアノの前で微笑む少女の写真があった。 「彼女は、音楽の才能というより、純粋な情熱を持っていました。特に、モーツァルトのソナタK.545を。あの曲には特別な思い入れがあったようです」 私は現地に足を運び、木曜の夜を三週間連続で過ごした。確かに、夜の九時を過ぎると、どこからともなくピアノの音が聞こえてきた。でも不思議なことに、音源がどこなのか特定できない。 「実は...」 村井先生が、ためらいがちに話し始めた。 「美玲さんは、あの曲を私の退職祝いに弾くことを約束していたんです。『先生の最後の授業で、絶対に完璧に弾きます』って」 その言葉で、私の中で何かが繋がった。 翌日、私は学校の記録を調べた。そこで見つけた意外な事実。村井先生は、実は既に定年退職の年齢に達していた。しかし、美玲の死後、特別に延長を申請していたのだ。 木曜日の夜。私は再び音楽室を訪れた。 「先生、もう十分です」 私は静かに声をかけた。 村井先生は、ピアノの前で泣いていた。演奏は、彼自身のものだった。毎週木曜日、彼は放課後に残り、美玲が練習していた曲を弾いていたのだ。 「申し訳ない。私は...彼女との約束を守れなかった。だから、せめて彼女の代わりに...」 先生の告白に、胸が締め付けられた。 「いいえ、先生は約束を守っています」 私は、美玲の母親から聞いた言葉を伝えた。 「美玲さんは言っていたそうです。『村井先生の前で、この曲を弾けることが、私の一番の幸せ』って」 先生の弾くソナタは、決して技術的に完璧ではなかった。でも、そこには美玲の情熱が確かに生きていた。 「先生、最後の授業で、もう一度弾いてみませんか?」 翌週の木曜日。音楽室には、美玲の両親や級友たちが集まっていた。 村井先生が弾き始めると、不思議なことが起きた。どこからともなく、もう一つのピアノの音が重なってきたのだ。 その音は、まるで美玲が一緒に演奏しているかのようだった。 窓の外では、春の風が桜の花びらを舞わせていた。そして私には、確かな手応えがあった。これは幽霊譚でも怪談でもない。ただ、一人の教師と生徒の、深い絆の物語なのだと。 取材ノートを閉じながら、私は思う。人の心の中で生き続ける音色は、時として現実よりも確かな存在になるのかもしれない。