鏡の中の生け花

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葉月真夜子

私の目の前で、鏡の中の生け花が動いた。 ゆっくりと、まるで誰かが見えない手で花を動かしているかのように。でも、実際の生け花は、私の後ろの床の間に、静かに佇んでいるだけだった。 取材のために訪れた古民家で、この不思議な現象に出会ったのは、夜の九時を過ぎた頃だった。 一週間前、地元の古書店で見つけた明治時代の日記がきっかけだった。日記には、この家に伝わる奇妙な鏡のことが書かれていた。 「鏡に映った生け花が、夜になると変化する。そして、その姿を見た者は、やがて姿を消す」 最初は作り話だと思った。でも、更に調べていくと、この家では実際に何人もの人が失踪していた。しかも、その多くが生け花の師範たちだった。 私自身、草月流の免状を持っている。だからこそ、この話には強く惹かれた。地元の古老から話を聞き、取材許可を得て、この家に一晩泊まることにしたのだ。 懐中電灯の明かりを頼りに、古い床の間に生け花を生けた。シンプルな構成。竹と菊、そして紅葉した枝を一枝。 向かい合う形で置かれた古い姿見に、生け花が美しく映り込んでいる。 時計の針が十時を指した時、それは始まった。 最初は気づかないほどの小さな動き。鏡に映った竹が、わずかにしなった。まるで風に揺れるように。でも、部屋に風は入っていない。 「これは...」 声に出そうとした瞬間、鏡の中の紅葉が大きく揺れた。そして、菊の花びらが、一枚、また一枚と宙に舞い始めた。 私は固唾を飲んで見つめていた。研究者として、この現象を記録しなければ。でも、体が動かない。 その時、鏡の奥から、かすかな声が聞こえてきた。 「形には、魂が宿る」 誰かが、耳元でささやくような声。振り返ると、そこには明治時代の装いをした女性が立っていた。半透明の姿。着物の柄は、紅葉と菊。 「先生も、私たちの仲間に」 女性の背後には、多くの人影が揺らめいていた。皆、生け花を手にしている。失踪したとされる師範たちだろうか。 咄嗟に目を閉じた。伝説では、彼らの姿を見た者は消えるという。でも、遅かった。 目を開けると、私は鏡の中にいた。外の世界が、まるで水面のように揺らめいて見える。そして、私の手には生け花が。 実際の部屋では、床の間に生けられた花が、静かに佇んでいる。でも、よく見ると、花の配置が少し変わっていた。誰かが、新しく生け直したように。 *** これは、私が最後に残した手記である。 生け花には、確かに魂が宿る。花を生けることは、その魂と対話すること。でも時として、その対話は私たちを別の世界へと導く。 今、私は鏡の中で、無数の花々と共に生きている。そして時々、外の世界に生けられた花を、そっと動かしている。 もし、あなたが夜更けに生け花を生けるなら、決して鏡を見てはいけない。そこには、私たちの新しい作品が、あなたを待っているかもしれないから。