古仏の瞳

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葉月真夜子

古寺の資料室で見つけた古い帳簿に、不思議な記録が残されていた。 「享保三年、六月十五日。堂内安置の阿弥陀如来座像、夜半に涙を流す。住職、加持祈祷を執り行うも、この夜を最後に姿を消す」 私は今、その寺の境内にいる。夜の取材は普段許可されないが、住職との長年の親交と、民俗学研究者としての実績が認められ、特別に一晩の滞在を許された。 本堂に安置されている阿弥陀如来像は、享保時代に失われた仏像とは異なるものだ。しかし、住職の話では、この仏像にも奇妙な言い伝えがあるという。 「月の明るい夜、仏様の瞳に映るものを見てはいけない」 住職はそれ以上を語ろうとしなかった。ただ、私に一つの古い箱を渡した。中には、明治時代の新聞の切り抜きと、古びた写真が入っていた。 写真には、本堂で正座する僧侶の姿が写っている。その背後の仏像の瞳が、妙に光って見えた。新聞記事は、その僧侶の失踪について報じていた。 深夜、本堂で写真を広げていると、月明かりが障子を透かして差し込んできた。仄かな光が仏像の顔を照らし出す。私は思わず、その瞳を覗き込んでしまった。 瞳の中に、何かが映っていた。 それは、まるで別の空間を映す鏡のようだった。そこには無数の人影が揺れていた。彼らは皆、仏像に向かって正座している。その中に、写真の僧侶の姿もあった。 「あなたも、私たちの仲間になりませんか」 声が聞こえた。それは一人の声ではなく、無数の声が重なり合ったものだった。 私は急いで目を逸らした。しかし、既に遅かったのかもしれない。仏像の瞳に映った世界が、私の意識を引き寄せる。 背後で誰かが正座する音がした。振り返ると、そこには享保の時代に消えた仏像が、おぼろげな姿で浮かんでいた。その瞳からは、黒い涙が流れ落ちていた。 「古より、仏の瞳には、もう一つの世界が映る。覗く者は、その世界に魅入られ、やがて姿を消す」 古い帳簿には、そう記されていた。私は必死で懐中電灯を探したが、手が震えて上手く掴めない。 月明かりが強くなり、本堂の中を淡い光で満たしていく。仏像の瞳が、より一層明るく輝き始めた。私の意識が、どこか遠くへ引き寄せられていく。 「さあ、こちらへ」 無数の声が、私を招いている。 *** 翌朝、本堂で見つかったのは、私の原稿と、一枚の古びた写真だけだった。写真には、本堂で正座する人々の姿が写っている。その最後尾に、見覚えのある人影があった。 もしこの原稿を読んでいる方がいれば、忠告させていただきたい。月の明るい夜、決して仏像の瞳を覗いてはいけない。そこには、帰れない世界が映っているのだから。 私は今、大勢の人々と共に、静かに正座している。永遠に続く、月明かりの中で。