深夜三時。古びた和室の書斎で、私は明治三十二年の新聞切り抜きを読み返していた。蝋燭の灯りが揺らめき、障子に奇妙な影を落としている。 「不可解な失踪事件、生け花教室にて女性二名行方不明」 その記事は、京都の某旧家で起きた事件を伝えていた。生け花の稽古中、師範と生徒が忽然と姿を消したという。屋敷内を徹底的に捜索したが、二人の痕跡は一切見つからなかった。残されていたのは、完成間近の生け花と、床に散りばめられた数珠の欠片だけだった。 取材のため、その旧家を訪れたのは先週のことだ。今でも生け花教室として使われている建物は、築百五十年を超える木造家屋だった。私は草月流の免状を持っているため、現当主から特別に夜間の取材許可を得ることができた。 「あの事件以来、不思議なことが度々起きるんです」 現当主はそう語り、古い日記を見せてくれた。それによると、毎年旧暦の三月三日になると、生け花に使った花が一晩で枯れ、花器から黒い水が溢れ出すという。 「今夜がその日なんです」 私は一人、薄暗い教室に座っていた。古い床板が軋む音が響く。障子の向こうで風が吹き、庭の木々が影絵のように揺れている。 深夜零時を回った頃、不意に花器から水が滴り始めた。その音は、まるで誰かが数珠を繰るような規則正しいリズムを刻んでいた。 私は懐中電灯で床を照らした。黒い水が床に染みこみ、不規則な文様を描いている。よく見ると、それは人の顔のような形に見えた。 古い日記に、こんな記述があった。 『花は命あるもの。正しく扱わねば、祟りを招く』 私は民俗学研究者として、各地の怪異について調べてきた。しかし、花に宿る魂の存在を、これほど身近に感じたことはない。 その時、背後で微かな物音がした。振り返ると、生けられた花が、人の手のように揺れていた。花器の中の水は完全に黒く濁り、その表面に人の顔が映っていた。 「花は、供えものではありません」 耳元で囁くような声が聞こえた。それは百年以上前に消えた師範の声なのだろうか。私の手元の古い数珠が、不意にばらりと崩れ落ちた。 「花は、いけるのではなく、生かすもの」 声は続いた。花器の中の黒い水が、蛇のように床を這い始める。私は動けなかった。足元で水が渦を巻き、まるで誰かが下から手を伸ばしているかのようだった。 「さあ、私たちと一緒に」 黒い水は私の足首を包み込み、ゆっくりと引き込もうとしていた。抵抗する間もなく、体が沈んでいく。最後に見たのは、生け花が人の形に歪むさまだった。 翌朝、教室で見つかったのは、完成間近の生け花と、床に散りばめられた数珠の欠片だけだった。 *** これは、私が最後に書き残した原稿である。もしこれを読んでいる方がいれば、お願いがある。生け花をする時は、決して花を痛めてはいけない。なぜなら、花には魂が宿っているから。 そして、もし深夜に花器から黒い水が滴り始めたら、決して振り返ってはいけない。私たちが、その姿を見つめているから。