私は地方取材から戻る終電に揺られていた。車窓から見える景色は、すべてが黒い絨毯に包まれたようで、時折通り過ぎる街灯だけが現実の存在を主張していた。 モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」をイヤホンで聴きながら、取材ノートを開く。今回の事件は、地方都市の小さな駅で起きた不可解な出来事から始まった。 三ヶ月前、春日駅で起きた置き引き事件。防犯カメラには映っていなかったが、被害者の証言によれば、犯人は駅員の制服を着ていたという。しかし、その時間帯に該当する駅員は一人もいなかった。 取材で駅を訪れた私の目に留まったのは、ホームの端にある古びた待合室だった。誰も使っていないはずのその場所に、一脚の椅子だけが妙に新しかった。 「この椅子、いつ頃から…」 私が駅長に尋ねると、彼は首を傾げた。 「待合室の椅子ですか?あそこは三年前から使っていませんが」 私は再び待合室に向かった。確かにそこにあったはずの新しい椅子は、跡形もなく消えていた。代わりに、埃を被った古い椅子が何脚も並んでいた。 その日から、私は春日駅の謎に取り憑かれた。毎日同じ時間に駅を訪れ、ホームの様子を観察した。そして一週間後、ついに気付いた。 防犯カメラの死角。待合室の位置。そして、夜間の臨時列車の時刻表。すべてが繋がった。 犯人は元駅員だった。三年前の駅の民営化で職を失い、それ以来、深夜の駅で独り芝居を続けていた。新品の椅子は、彼が持ち込んだもの。昔の仕事を忘れられず、制服を着て駅内を巡回し、時には親切な駅員を演じていた。 しかし、ある日、親切のつもりが裏目に出た。旅行者の大きな荷物を預かったものの、返す機会を失い、そのまま持ち去ることになってしまった。それが置き引き事件として報告されたのだ。 「私は、ただ駅員でいたかっただけなんです」 逮捕された元駅員の言葉が、今も耳に残っている。 車内アナウンスが次の駅を告げる。私は取材ノートを閉じ、窓の外を見つめた。そこには、また新しい物語の種が潜んでいるかもしれない。人々の日常の中に隠れた、小さな違和感の正体を探す旅は、まだ続く。 モーツァルトの旋律が静かに終わりを告げる。終電は闇の中を、確かな足取りで走り続けていた。