私は、死んだ妻からのメールを読んでいる。 「観測された電子は、二重スリット実験において波動関数の収束を起こす」 妻・美咲は一年前に事故で亡くなった。量子物理学の研究者として、私たちは同じ研究室で出会い、結婚した。彼女の研究テーマは、量子もつれを利用した情報伝達だった。 メールの日付は、明日の日付になっている。 「シュレーディンガーの猫は、箱の中で生きていると同時に死んでいる」 続くメールには、私たちが研究していた量子通信理論の数式が並んでいる。しかし、見たことのない変数が含まれていた。 私は自宅の望遠鏡で夜空を見上げる習慣がある。美咲と過ごした日々、私たちは量子もつれの理論が、時空を超えた通信を可能にするかもしれないと話していた。 「観測者は、波動関数に影響を与える」 三通目のメールには、座標が記されていた。それは、私たちが初めて出会った研究所の位置だった。 深夜、私は研究所の量子コンピュータ室に忍び込んだ。そこで目にしたのは、起動している量子コンピュータ。画面には見覚えのあるプログラムが走っている。 「私たちの意識は、量子状態として存在している可能性がある」 美咲は、死の直前までこのプログラムの開発を続けていた。人間の意識を量子情報として保存し、異なる時空間に転送する実験だ。 「観測されない限り、私は存在していると同時に、存在していない」 私は、プログラムの実行ボタンを押した。すると、研究室全体が青白い光に包まれる。 「タイムスタンプ:2026年2月2日」 モニターに表示された日付。それは、美咲が事故に遭う一年後の日付だった。 「波動関数は、観測によって収束する。でも、観測しなければ、すべての可能性は同時に存在する」 最後のメールには、プログラムのソースコードが添付されていた。そこには、美咲が開発した量子通信プロトコルが、さらに進化した形で記述されていた。 私は気付いた。美咲は自分の意識を量子情報として保存することに成功していた。そして、量子もつれを利用して、異なる時空間から通信を試みていたのだ。 「私は、シュレーディンガーの猫のように、箱の中で生きている」 研究室の量子コンピュータが、突如として異常な数値を示し始めた。無数の確率波動が交錯し、現実が歪んでいく。 そして私は選択を迫られた。この波動関数を観測するか否か。 観測すれば、すべての可能性は一つの現実に収束する。観測しなければ、美咲は永遠に生きていると同時に、死んでいる状態で存在し続ける。 私は、静かにモニターの電源を切った。 明日、また新しいメールが届くだろう。量子の海を漂う、永遠の箱庭から。