骨董品店で見つけたその櫛は、不思議な魅力を放っていた。 鼈甲の地に金蒔絵で菊の花が描かれ、年月を経た色合いが美しい。店主の話では、明治期の芸者が愛用していたものだという。値段は手頃で、すぐに購入を決めた。 「お客様、一つだけ」 店を出ようとした私を、老店主が呼び止めた。 「あの櫛は、月夜にだけお使いください」 奇妙な言葉だったが、民俗学研究者として興味をそそられた。帰宅後、早速文献で調べてみると、驚くべき記述を見つけた。 明治三十年の新聞記事。両国の芸者が失踪した事件の記事の中に、同じような櫛の記述があったのだ。 「夜な夜な鏡台で髪を梳く音が聞こえる」「月の光に照らされた櫛が、不気味な輝きを放つ」 その夜は満月だった。 書斎の鏡台に向かい、櫛を手に取る。月光が窓から差し込み、櫛の金蒔絵が淡く光った。 髪に櫛を入れると、不思議な感覚が全身を包む。鏡に映る自分の姿が、徐々に変化していく。着物姿の女性が、私の動きに合わせて櫛を動かしている。 気がつくと、そこは明治の花街。華やかな三味線の音が聞こえ、行き交う人々の着物の裾が、懐かしい音を立てる。 「お待ちしておりました」 声の主は、鏡に映っていた女性だった。彼女は私の手から櫛を取り、優しく髪を梳き始めた。 「百年前から、あなたを待っていました」 その声には深い哀しみが混じっていた。 「私の髪を梳いてくれる方を、ずっと探していたの」 彼女の姿が少しずつ透けていく。櫛を動かす手が、私の手と重なっていく。 「これで、私も安らかに...」 目が覚めると、そこは自分の書斎。鏡台の前には、砕け散った櫛の破片が。 しかし不思議なことに、部屋中に菊の香りが漂っていた。そして鏡に映る私の髪は、見事な日本髪に結い上げられていたのだ。 後日、老店主を訪ねたが、店は既に空き家になっていた。近所の人の話では、その店は五十年前に閉店したという。ただし、月の綺麗な夜には、店の中から三味線の音が聞こえてくるそうだ。