京都府の山奥にある廃寺の取材に訪れたのは、旧暦の閏月の夜だった。 十年前に起きた失踪事件の調査のためだ。地元の古文書に、似たような出来事が記されているという噂を聞きつけた私は、一カ月かけて関連資料を収集した。 本堂は崩れかけていたが、薄暗い堂内には まだ古い仏像が鎮座していた。青銅製の如来像。時を経て緑青に覆われた姿は、どこか物悲しい。 三脚を立て、記録写真を撮影していると、不思議なことに気がついた。ファインダー越しに見える仏像の瞳が、わずかに光っているように見える。 カメラを下ろして直接見ると、そのような様子はない。しかし、再びファインダーを覗くと、確かに微かな光が。 「気のせいでしょう」 自分に言い聞かせるように呟いて、撮影を続けた。するとその時、シャッター音と共に、背後で何かが動く気配。 振り返ると、仏像の前に一枚の古い写真が落ちていた。埃を被った白黒写真には、同じ仏像の姿が写っている。しかし、その横に写る僧侶の表情が、どこか歪んでいる。 写真の裏には、かすれた文字で「閏月の夜、仏の瞳を覗くものは、すなわち仏に見られるなり」と記されていた。 背筋が凍る。ゆっくりと仏像の方を振り返ると、その瞳が、確かに私を見つめていた。 古記録によれば、この寺の最後の住職は、閏月の夜に失踪したという。住職の日記には、仏像の瞳に「何か」を見たという記述が残されているだけだった。 そして今、私にも見えている。仏像の瞳の奥に広がる、底なしの闇が。かつて消えた人々の影が蠢く、あの世とこの世の境界が。 「撮影、終わりました」 仏像が、静かに頷いた。 翌朝、本堂に残されていたのは、三脚と、床に散らばった写真の切れ端。そして、穏やかな表情を浮かべる青銅の如来像だけだった。 後日、現像された写真には、仏像の前で微笑む一人の女性の姿が写っていた。その表情は、どこか歪んでいて。